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何日も顔を出さないですみません!
ツイッターの方ではご報告致しましたが、架崎無事です、生きてます。
この記事では、私が震災で経験したことを書きたいと思います。
決して明るい話ではないので、苦手な方や不快に思われる方は読まれないことをお薦めします。
ツイッターの方ではご報告致しましたが、架崎無事です、生きてます。
この記事では、私が震災で経験したことを書きたいと思います。
決して明るい話ではないので、苦手な方や不快に思われる方は読まれないことをお薦めします。
3月11日、東日本大震災が起こったこの日は、父の誕生日であり、両親の結婚記念日でした。
と同時に、祖母の命日にもなりました。
この日は、昼間から雪が降るほど寒く、ベランダに干していた洗濯物を家の中に入れ、いつも通りゲームをしていました。
多分、1時半くらいだったと思います。
それから1時間くらい経って、地震が起こりました。
2日前の9日にあった地震ではびくともしなかった家の物たちが、今回の地震では壁から床へみんな落ちていきました。
長い長い揺れがだいぶおさまり、私は1階にいる祖母の元へ向かいました。私が居たのは2階です。
しかし階段を降りていくら呼びかけても祖母は居ず、外に出て周囲を見渡し、もう一度家の中に入ったときに祖母が帰ってきました。回覧板を届けに行っていたようです。
それから二人で家の中の片付けをどうするか話していました。その時はまだ、ゲームの心配をするほどでまさかあんなに大きな津波が来るとは思ってもいませんでした。
祖母と暫く会話をしていた後、市の放送がなりました。大津波警報です。
3メートルの大津波がくるから高台に非難しろと、3回くらい鳴って放送は途切れました。
私の家は道路を挟んですぐ防波堤があるほど海の近くにあるので、逃げようと祖母に言いましたが年寄りは頑固です。
逃げないと言い張り、私が何度叫んでもそこを動こうとしませんでした。
じゃあせめて2階に上がってと、言っても聞かず、私は海の様子を見に一人2階のベランダへ行きました。
そこで見た光景は、ベランダのすぐそこまできている波でした。
気が動転して、ベランダの窓を開けっ放しで階段の手摺りに触れたとき、1階から祖母の叫ぶ声が聞こえました。
祖母は一言、私の名前を。
私は「ばあちゃん2階に来て!!」と叫び、1階に下りる勇気もなく、2階のキッチンにある梯子からロフトに上りました。
地震で梯子が外れそうだったのも気に留めず、急いで駆け上がりました。多分その時には既に家の中に水が入ってきていたと思います。
それから暫くロフトで一人震えていました。
家が段々傾いていきました。
キッチンの壁に亀裂が入っていくのが見えました。
ロフトからキッチンの窓を見ると水と、海によく浮かんでいる浮きが見えて、ここまで波が来たのかと絶句しました。
暫く窓を見ていたら水が引き、家がミシミシと音を立てているのが解りました。
ロフトには小窓があり、普段その小窓は増築したうちの建物によって塞がれ暗くなっているのですが、増築部分が下がったようで外の光景を見ることができ、意味が解らなかったのを覚えています。
ロフトの窓から防波堤が見え、その向こう側に高台があって避難したであろう人たちがいました。
普段は決してロフトの窓から防波堤が見えるということはありません。方角が違います。
暫くして気付いたのは、家が引き潮で流され、防波堤を越えたということでした。
私はどうにか今からでも高台に避難できないかと、梯子を降りて脱出口を探そうと思いました。
床が濡れていましたが気にしていられないと思い降りました。
ロフトから見えていたキッチンの窓から外を覗いてみましたがあるのは海だけでした。ここからは無理だと思い廊下に出ましたが、家の中には砂も入ってきていて、斜めにもなっているので壁に手を突きながらでないと歩けない状態でした。
ベランダから外を見たら手摺りが折れ曲がり、傍には瓦礫の山。
ここからも逃げられないと引き返し、ゲームをしていた部屋に行きましたがそこの窓も瓦礫に塞がれ脱出するのは無理でした。
階段はもうありませんでした。1階が瓦礫になっていました。2階がそのまま無事であることが奇跡のようです。
それから再びロフトに戻って高台を見ました。人が沢山いて、近所のおばあさんが誰かの名前を何回も叫んでいます。多分、その人も逃げなかったんだろうなぁ。
どうしてもあそこに行きたい。でも脱出できる場所がない。死ぬと本気で思いました。
ああ自分死ぬのかな。怖い。怖い。こわい。
死にたくないと思ったんです。こんな所で死にたくない。
増築部分が下がり続け、ロフトの小窓から屋根に出られそうと思ったんです。でも開かない窓で、どんなに頑張っても開かなくて、なら壊そうと。どうせ流れちゃった家だしもう使わないだろう、壊しても平気だ。そう思ってロフトの中から硬い物を探して何度も窓に打ち続けたんですが分厚いガラスにはひび一つ入りませんでした。元々そんなに硬くて丈夫な物がロフトになかったんですが。
何回も試した結果開かないと判断したので、それならあと逃げられるのは最初に諦めたキッチンの窓しかないと思いました。
もう1度梯子から降りて、そこにあったスリッパを履きました。外は瓦礫だらけだし、何も履いていないよりはマシだと思ったんです。
窓に上がり、外を眺め、逡巡してしまいました。一度引き返してまたロフトに上がり、高台を確認し、高台に行くまでのルートを探しました。なんとか瓦礫の上を伝えば防波堤を越えられるかな。その後も、きっとどうにかなる。
梯子を降りて、意を決して窓から外に出ました。
丁度窓の外に何本かロープのようなものがあり、それを伝って若干下がった増築部分の屋根へ。
どうやって屋根に上ったか覚えてないんです。気がついたら屋根の上にいて、防波堤を越えたくて屋根の高いところから下に下がって瓦礫の上を行こうとしたとき高台から色んな人の叫び声が聞こえました。
「また波が来るからそこにいろ!」「屋根の上で待ってろ!!」
また波が来るのにここに居ていいの!? 早くそっち行きたいんだけど!!
と思いましたが大人しく従うことにしました。田舎はみんな顔見知りです。みんな私が誰の孫でどこに家の子か知ってます。
暫く屋根の上で海を見ていました。波が動くたび怖かったです。
そうしていたら高台の方から白髪のおじさん2人が私の元に向かってきてくれてるんですよ。
「今迎えに行くからそこにいろー!」
えっ、そんなご年配の方が…わざわざ迎えに来てくださるんですか。すごく申し訳なかったです。
田舎のおじさんたちは強いです。みんな漁師です。海の男です。
私が高台に上がるに安全なルートを探しながら、防波堤を越え、屋根まで来てくれました。
途中細い道で、「おぶされ!」(おんぶのことです)と言われ、「えっ、いいです!私重いですよ!」と言ったんですがいいからおぶされと言われ、渋々背中に乗ったら「おめぇ、おぶでえな!(お前、重いな!)」と言われ凹みました。「だから言ったじゃないですか!」と、今となっては笑い話です笑
それからずっと手をつないでもらって、安全な場所に辿り着くことができました。
高台から親戚のおばあちゃんが、私のばあさんはと尋ねてきましたが、逃げない、生きても死んでもこの家にいるって言って逃げなかったと伝えました。
私の祖母の性格はみんな知っています。親戚のおばあちゃんは納得して、私の手を繋いで高台へ連れて行ってくれました。
そのおばあちゃんも家を津波にやられました。私たちは高台にある別の親戚の家に行き、泥だらけだった私は着替えを貸してもらって居間で休みました。
その家に行く途中、ああ私生きてるんだ、そう思って、涙が止まりませんでした。
助かったあとも電気はなく、こたつもストーブ使えなくて寒かったのを覚えています。
それでもみんなでこたつに入ってるとあったかくて、ああ田舎っていいなぁと思いました。
私が一番心配だったのは母です。母の仕事場は道路を挟んですぐ海があるような、超海辺でした。防波堤もありません。
平らな道路が続き、逃げ場もないと思っていました。今回の津波は地震が起きてから来るのが早すぎたんです。
父と兄からはメールがあったので無事だと分かっていました。でも母からはなんの連絡もなかったんです。
その日の夜は親戚が集まって居間で寝ました。こたつに足を入れて、毛布1枚で。
次の日の朝、母と同じ会社の人が帰ってきたと人伝に聞きました。歩けば何時間かかるか分からない場所から、車も流されたので歩いてきたと。
そして、会社の人たちは全員高台に避難したということも聞きました。途中まで一緒に歩いてきていたけど別れてしまった。
それでも母が無事ということを聞き、すごく安心しました。
きっともうすぐ帰ってきてくれる、そう思って待っていたら、居間の窓から作業着姿の母の姿が。
私は急いで玄関に行き、母と再会しました。本当に良かったです。安心して涙が出ました。
母は地震が来た後すぐに高台に避難して、津波を見ていたそうです。そして、私と祖母は逃げないだろうなと思ったと言っていました。その通りです。
母が無事でいてくれて、一人じゃなくなったのでその日の夜は昨晩より眠ることができました。夜中は余震が続いて何回も目が覚めます。
そして次の日の午前中、父と兄が一緒に帰ってきました! てっきり地震の日から一緒にいたのかと思ったんですが、さっき偶然会ったそうです。なんて運命。
父は会社の建物の中で津波に耐え(5階に避難していて津波は3階まで来たそうです)、一夜を会社で明かして次の日は会社の人たちと一緒に旅館に泊まったと言っていました。兄は二晩とも車で眠ったと。
父の会社がある方角、私たちが住んでいる町から海を挟んで見ることができるんですが、2日間ずっと火柱が立って煙がもくもくとあがっていたんですよね。どうやら重油が海に流れ出して燃えていたそうです。辺り一面焼け野原で戦時中みたいだったと。
でも家族4人が無事で本当によかったです!
携帯の電源は切れ、電気も水道も復旧していなかったので安否報告ができなかったこと、本当に申し訳ありませんでした!
心配でご飯も食べれず眠ることもできなかった友人の方々、本当にありがとうございます。
私は意外と食べて寝てました!←
最初はおかゆの毎日だったんですが、圧力鍋でご飯が炊けることを知ったのでそれからは普通に白米を。
内陸にいる親戚の方々が食料を大量に持ってきて下さったので食べるものにも困りませんでした。寧ろ消費期限が切れそうなものから順に食べるのが大変でした笑
震災から1週間くらい経ってからは自衛隊の方々が毎日水を持って来て下さるようにもなりましたし、配給物資が届くようにもなりました。
ただ電気と水はずっと復活しないままでした。
夜は暗くなる前にご飯を食べ、電灯で照らしながら食器を洗い、ちょっと雑談してから20時には寝る生活。
朝は明るくなったら起きる。こんな規則正しい生活したことありません。
うちの2階が無事だったこともあり、昼間は流された家に通って使えるものを出す作業をしていました。
後から分かったことですが、うちの2階は倒れた電柱から伸びている電線によって支えられ海まで流れなかったみたいです。
うおおまじ奇跡…!
祖母が見つかったのは、3月29日です。
津波でぐちゃぐちゃになった網の片づけをしていた漁師の方々が発見して下さいました。
幸いと言うのはおかしいかもしれませんが、祖母はちゃんと服も着ており外傷もなかったそうです。
顔を見たときもちゃんと祖母だと判別できました。
まだまだ行方不明者が沢山いる中で、暑くなる前に見つかった祖母はいい方だと思います。
火葬もすぐに出来、通夜と葬儀も済ませられました。
私はその時には既に4月4日に埼玉に帰ると予定を立てていたので、私が行く前に全て行えたのも良かったと思います。
電気は7日頃に復旧しました。しかしまだ一部の地域では通ってないそうです。津波で電柱が何本も倒されたので、時間がかかるそうです。
水道は半年以上かかるみたいです。仮設住宅も、いつ住めるのか分かりません。
私は電気も水も使える場所にいるのでいいですが、家族はまだ避難所で生活を送っています。
家族だけでなく、まだ沢山の方々が避難生活を余儀なくされていると思います。
そんな方々が一日でも早く安心した生活に戻れることを、安心した気持ちになれることを、心から祈っています。
最後に、私のことを心配して下さった皆様方、本当にありがとうございました。
架崎は無事です。生きてます。
こんな私ですが、これからもよろしくしてやって下さい。
と同時に、祖母の命日にもなりました。
この日は、昼間から雪が降るほど寒く、ベランダに干していた洗濯物を家の中に入れ、いつも通りゲームをしていました。
多分、1時半くらいだったと思います。
それから1時間くらい経って、地震が起こりました。
2日前の9日にあった地震ではびくともしなかった家の物たちが、今回の地震では壁から床へみんな落ちていきました。
長い長い揺れがだいぶおさまり、私は1階にいる祖母の元へ向かいました。私が居たのは2階です。
しかし階段を降りていくら呼びかけても祖母は居ず、外に出て周囲を見渡し、もう一度家の中に入ったときに祖母が帰ってきました。回覧板を届けに行っていたようです。
それから二人で家の中の片付けをどうするか話していました。その時はまだ、ゲームの心配をするほどでまさかあんなに大きな津波が来るとは思ってもいませんでした。
祖母と暫く会話をしていた後、市の放送がなりました。大津波警報です。
3メートルの大津波がくるから高台に非難しろと、3回くらい鳴って放送は途切れました。
私の家は道路を挟んですぐ防波堤があるほど海の近くにあるので、逃げようと祖母に言いましたが年寄りは頑固です。
逃げないと言い張り、私が何度叫んでもそこを動こうとしませんでした。
じゃあせめて2階に上がってと、言っても聞かず、私は海の様子を見に一人2階のベランダへ行きました。
そこで見た光景は、ベランダのすぐそこまできている波でした。
気が動転して、ベランダの窓を開けっ放しで階段の手摺りに触れたとき、1階から祖母の叫ぶ声が聞こえました。
祖母は一言、私の名前を。
私は「ばあちゃん2階に来て!!」と叫び、1階に下りる勇気もなく、2階のキッチンにある梯子からロフトに上りました。
地震で梯子が外れそうだったのも気に留めず、急いで駆け上がりました。多分その時には既に家の中に水が入ってきていたと思います。
それから暫くロフトで一人震えていました。
家が段々傾いていきました。
キッチンの壁に亀裂が入っていくのが見えました。
ロフトからキッチンの窓を見ると水と、海によく浮かんでいる浮きが見えて、ここまで波が来たのかと絶句しました。
暫く窓を見ていたら水が引き、家がミシミシと音を立てているのが解りました。
ロフトには小窓があり、普段その小窓は増築したうちの建物によって塞がれ暗くなっているのですが、増築部分が下がったようで外の光景を見ることができ、意味が解らなかったのを覚えています。
ロフトの窓から防波堤が見え、その向こう側に高台があって避難したであろう人たちがいました。
普段は決してロフトの窓から防波堤が見えるということはありません。方角が違います。
暫くして気付いたのは、家が引き潮で流され、防波堤を越えたということでした。
私はどうにか今からでも高台に避難できないかと、梯子を降りて脱出口を探そうと思いました。
床が濡れていましたが気にしていられないと思い降りました。
ロフトから見えていたキッチンの窓から外を覗いてみましたがあるのは海だけでした。ここからは無理だと思い廊下に出ましたが、家の中には砂も入ってきていて、斜めにもなっているので壁に手を突きながらでないと歩けない状態でした。
ベランダから外を見たら手摺りが折れ曲がり、傍には瓦礫の山。
ここからも逃げられないと引き返し、ゲームをしていた部屋に行きましたがそこの窓も瓦礫に塞がれ脱出するのは無理でした。
階段はもうありませんでした。1階が瓦礫になっていました。2階がそのまま無事であることが奇跡のようです。
それから再びロフトに戻って高台を見ました。人が沢山いて、近所のおばあさんが誰かの名前を何回も叫んでいます。多分、その人も逃げなかったんだろうなぁ。
どうしてもあそこに行きたい。でも脱出できる場所がない。死ぬと本気で思いました。
ああ自分死ぬのかな。怖い。怖い。こわい。
死にたくないと思ったんです。こんな所で死にたくない。
増築部分が下がり続け、ロフトの小窓から屋根に出られそうと思ったんです。でも開かない窓で、どんなに頑張っても開かなくて、なら壊そうと。どうせ流れちゃった家だしもう使わないだろう、壊しても平気だ。そう思ってロフトの中から硬い物を探して何度も窓に打ち続けたんですが分厚いガラスにはひび一つ入りませんでした。元々そんなに硬くて丈夫な物がロフトになかったんですが。
何回も試した結果開かないと判断したので、それならあと逃げられるのは最初に諦めたキッチンの窓しかないと思いました。
もう1度梯子から降りて、そこにあったスリッパを履きました。外は瓦礫だらけだし、何も履いていないよりはマシだと思ったんです。
窓に上がり、外を眺め、逡巡してしまいました。一度引き返してまたロフトに上がり、高台を確認し、高台に行くまでのルートを探しました。なんとか瓦礫の上を伝えば防波堤を越えられるかな。その後も、きっとどうにかなる。
梯子を降りて、意を決して窓から外に出ました。
丁度窓の外に何本かロープのようなものがあり、それを伝って若干下がった増築部分の屋根へ。
どうやって屋根に上ったか覚えてないんです。気がついたら屋根の上にいて、防波堤を越えたくて屋根の高いところから下に下がって瓦礫の上を行こうとしたとき高台から色んな人の叫び声が聞こえました。
「また波が来るからそこにいろ!」「屋根の上で待ってろ!!」
また波が来るのにここに居ていいの!? 早くそっち行きたいんだけど!!
と思いましたが大人しく従うことにしました。田舎はみんな顔見知りです。みんな私が誰の孫でどこに家の子か知ってます。
暫く屋根の上で海を見ていました。波が動くたび怖かったです。
そうしていたら高台の方から白髪のおじさん2人が私の元に向かってきてくれてるんですよ。
「今迎えに行くからそこにいろー!」
えっ、そんなご年配の方が…わざわざ迎えに来てくださるんですか。すごく申し訳なかったです。
田舎のおじさんたちは強いです。みんな漁師です。海の男です。
私が高台に上がるに安全なルートを探しながら、防波堤を越え、屋根まで来てくれました。
途中細い道で、「おぶされ!」(おんぶのことです)と言われ、「えっ、いいです!私重いですよ!」と言ったんですがいいからおぶされと言われ、渋々背中に乗ったら「おめぇ、おぶでえな!(お前、重いな!)」と言われ凹みました。「だから言ったじゃないですか!」と、今となっては笑い話です笑
それからずっと手をつないでもらって、安全な場所に辿り着くことができました。
高台から親戚のおばあちゃんが、私のばあさんはと尋ねてきましたが、逃げない、生きても死んでもこの家にいるって言って逃げなかったと伝えました。
私の祖母の性格はみんな知っています。親戚のおばあちゃんは納得して、私の手を繋いで高台へ連れて行ってくれました。
そのおばあちゃんも家を津波にやられました。私たちは高台にある別の親戚の家に行き、泥だらけだった私は着替えを貸してもらって居間で休みました。
その家に行く途中、ああ私生きてるんだ、そう思って、涙が止まりませんでした。
助かったあとも電気はなく、こたつもストーブ使えなくて寒かったのを覚えています。
それでもみんなでこたつに入ってるとあったかくて、ああ田舎っていいなぁと思いました。
私が一番心配だったのは母です。母の仕事場は道路を挟んですぐ海があるような、超海辺でした。防波堤もありません。
平らな道路が続き、逃げ場もないと思っていました。今回の津波は地震が起きてから来るのが早すぎたんです。
父と兄からはメールがあったので無事だと分かっていました。でも母からはなんの連絡もなかったんです。
その日の夜は親戚が集まって居間で寝ました。こたつに足を入れて、毛布1枚で。
次の日の朝、母と同じ会社の人が帰ってきたと人伝に聞きました。歩けば何時間かかるか分からない場所から、車も流されたので歩いてきたと。
そして、会社の人たちは全員高台に避難したということも聞きました。途中まで一緒に歩いてきていたけど別れてしまった。
それでも母が無事ということを聞き、すごく安心しました。
きっともうすぐ帰ってきてくれる、そう思って待っていたら、居間の窓から作業着姿の母の姿が。
私は急いで玄関に行き、母と再会しました。本当に良かったです。安心して涙が出ました。
母は地震が来た後すぐに高台に避難して、津波を見ていたそうです。そして、私と祖母は逃げないだろうなと思ったと言っていました。その通りです。
母が無事でいてくれて、一人じゃなくなったのでその日の夜は昨晩より眠ることができました。夜中は余震が続いて何回も目が覚めます。
そして次の日の午前中、父と兄が一緒に帰ってきました! てっきり地震の日から一緒にいたのかと思ったんですが、さっき偶然会ったそうです。なんて運命。
父は会社の建物の中で津波に耐え(5階に避難していて津波は3階まで来たそうです)、一夜を会社で明かして次の日は会社の人たちと一緒に旅館に泊まったと言っていました。兄は二晩とも車で眠ったと。
父の会社がある方角、私たちが住んでいる町から海を挟んで見ることができるんですが、2日間ずっと火柱が立って煙がもくもくとあがっていたんですよね。どうやら重油が海に流れ出して燃えていたそうです。辺り一面焼け野原で戦時中みたいだったと。
でも家族4人が無事で本当によかったです!
携帯の電源は切れ、電気も水道も復旧していなかったので安否報告ができなかったこと、本当に申し訳ありませんでした!
心配でご飯も食べれず眠ることもできなかった友人の方々、本当にありがとうございます。
私は意外と食べて寝てました!←
最初はおかゆの毎日だったんですが、圧力鍋でご飯が炊けることを知ったのでそれからは普通に白米を。
内陸にいる親戚の方々が食料を大量に持ってきて下さったので食べるものにも困りませんでした。寧ろ消費期限が切れそうなものから順に食べるのが大変でした笑
震災から1週間くらい経ってからは自衛隊の方々が毎日水を持って来て下さるようにもなりましたし、配給物資が届くようにもなりました。
ただ電気と水はずっと復活しないままでした。
夜は暗くなる前にご飯を食べ、電灯で照らしながら食器を洗い、ちょっと雑談してから20時には寝る生活。
朝は明るくなったら起きる。こんな規則正しい生活したことありません。
うちの2階が無事だったこともあり、昼間は流された家に通って使えるものを出す作業をしていました。
後から分かったことですが、うちの2階は倒れた電柱から伸びている電線によって支えられ海まで流れなかったみたいです。
うおおまじ奇跡…!
祖母が見つかったのは、3月29日です。
津波でぐちゃぐちゃになった網の片づけをしていた漁師の方々が発見して下さいました。
幸いと言うのはおかしいかもしれませんが、祖母はちゃんと服も着ており外傷もなかったそうです。
顔を見たときもちゃんと祖母だと判別できました。
まだまだ行方不明者が沢山いる中で、暑くなる前に見つかった祖母はいい方だと思います。
火葬もすぐに出来、通夜と葬儀も済ませられました。
私はその時には既に4月4日に埼玉に帰ると予定を立てていたので、私が行く前に全て行えたのも良かったと思います。
電気は7日頃に復旧しました。しかしまだ一部の地域では通ってないそうです。津波で電柱が何本も倒されたので、時間がかかるそうです。
水道は半年以上かかるみたいです。仮設住宅も、いつ住めるのか分かりません。
私は電気も水も使える場所にいるのでいいですが、家族はまだ避難所で生活を送っています。
家族だけでなく、まだ沢山の方々が避難生活を余儀なくされていると思います。
そんな方々が一日でも早く安心した生活に戻れることを、安心した気持ちになれることを、心から祈っています。
最後に、私のことを心配して下さった皆様方、本当にありがとうございました。
架崎は無事です。生きてます。
こんな私ですが、これからもよろしくしてやって下さい。
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無題
架崎さんが生きていて本当に良かったです。
とりあえずホッとしました。
ホント良かったです。
もしかしたら軽率な言葉に感じるかもしれませんが、自分は地震の被害がほぼなかったような地方に住んでいます。
架崎さんの文を読んで
やっぱ本当にすごかったんだなぁ・・・と、
直接地震の被害にあった方々とは全く比べものにはなりませんが、テレビに映る東北の姿は怖かったです。というより、理解しがたかったです。
何が起きているのか分からなかったことを覚えています。
悲しいことがたくさんあったかと思いますが、
本当にひとりでも多くの方が無事で良かったです
まだ厳しい状況が続くかと思いますが
自分も何かできることがあればしたいと思います
大変な中、ご報告有難うございます。
皆さまの安全を心から祈ります。
そして漆黒の蝶の更新を
のんびりと、とても楽しみにお待ちしています。
お体に気をつけて下さい。
長々と失礼いたしました。
とりあえずホッとしました。
ホント良かったです。
もしかしたら軽率な言葉に感じるかもしれませんが、自分は地震の被害がほぼなかったような地方に住んでいます。
架崎さんの文を読んで
やっぱ本当にすごかったんだなぁ・・・と、
直接地震の被害にあった方々とは全く比べものにはなりませんが、テレビに映る東北の姿は怖かったです。というより、理解しがたかったです。
何が起きているのか分からなかったことを覚えています。
悲しいことがたくさんあったかと思いますが、
本当にひとりでも多くの方が無事で良かったです
まだ厳しい状況が続くかと思いますが
自分も何かできることがあればしたいと思います
大変な中、ご報告有難うございます。
皆さまの安全を心から祈ります。
そして漆黒の蝶の更新を
のんびりと、とても楽しみにお待ちしています。
お体に気をつけて下さい。
長々と失礼いたしました。
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